刺激から遠のくと備わることもあるのではないか?
という試み。
ズバリ、
お年寄りの相手ができるようになります。
多分。
え、そんなスキルいらない、という方には
つまらん記事ですw
お年寄り観察
お年寄りは身体の機能が低下していき
身体、精神には【刺激】よりも
清潔・単純・あるがままを受け入れる
~大らかさが生きる上で「楽」なのではないか~
<清潔>
掃除が億劫でなければ、生きることの苦しみはわきに置いて、はつらつと掃除ができます。
掃除を終えた時の、清々しさに自由や充実を感じるのは、悪い刺激ではない。と思います。
<単純>
例えば耳が遠くなるとある程度、大きな声で話しかけることがありますね。
難しいことを、短くわかりやすい言葉に変えて、ユーモアなど交えて話せるとさらにいいんじゃないでしょうか。こだわりが減ると、なぜだか機嫌がいい。。。お年寄りを見ているとそう思うんです。
<あるがままを受け入れる>
こういう境地は、受け入れざる!と悩み苦しみの末たどり着く。
あるいは明晰な観察によって
「生きる苦しみ」、「感情」、「さまざまな執着」を
流せるんではないでしょうか。
お年寄りが時々みせる「あきらめ」は、
私たちが持ち合わせない崇高な境地で、
『達観』というものでしょう。
さっきまで怒っていた老人と、
とことん向き合ってみると急に変わるんです。
変わった途端、慈悲の深さは先ほどの怒りに
こわばらせていた表情と両極端なんです。
そのように、“あるがままを受け入れる”
って言うのは、ぶつかってぶつかって丸くなる、
というプロセスを経なくてはなりませんで、
[忍耐]についてくるご褒美、
だと解釈しています。
結論 自分の役割をやり切ってみよう
。*⑅୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧⑅*。
まとまりませんが、
刺激から遠のいて
お年寄りに付き合うのが、
当面のわたしの役目です。
ちょいと世間様に疎くても。
母が入所している施設の職員さんの
ご苦労に比べたら、足元にもおよばないのだから
父・母の心のヒダに気を配る事は、
自分の役割として優先順位が高いのであります。
年寄りの心のヒダ。捉え方次第、忍耐次第、やり切ってみて
何が備わるか、それは向き合いながらほとほと嫌気がさすんです。
だから捨てて行くべきものがわかり、育てなければ忍耐はほぼゼロからスタートです、誰から認められるものではない事、承知してすすみますw
雨が強くなってきました。
ご自愛くださいませ。