終活は元気なうちに
親の元気なうちに、親の希望する葬儀の形を
自然に話せるといいんですが、「葬儀だなんて縁起でもない」というのがご両親の正直なお気持ちなら、自分の終活として早すぎることはありません。
人間はいつ死ぬか、自分ではわからないからです。
両親は再婚同士で、単純に、母も父と一緒にお墓に入るとはいかない事情があるんですね。
簡単なのは、やはり元気なうちに、葬儀はどんな形で宗派は?と聞いておくことです。
母の答えは、ゆかりの寺は祖父の寺がそれに当たるが、祖父も郷里を離れて暮らしていたので、お寺さんとは縁もゆかりもなく見送ったので、わたしもこだわらないし、お墓もいらないよ、と言うのです。
初期仏教に宗派は関係なし
母には葬儀の形にこだわりがないというのですから
今の流行りの、家族葬ということになりますか。
お坊さんを呼ぶ必要もなくお墓もいらないというのですから
あっさりとしたものです。
ですので母には、心の拠り所として、宗派関係ない初期仏教をすすめるのです。
スリランカやアジアに静かに続くお釈迦様の教え、戒律を守ってきた初期仏教テーラワーダは、日本の大乗仏教の、枝分かれしていった宗派ではありません。
なので、家にご先祖様供養の仏壇があっても、それはそれで尊重するのです。
日本は西欧風の文化が浸透して、クリスマスもお正月もハロウィンもイースターもお祭り気分やイベントとして楽しみますね。我々凡夫の生きているうちのささやかな楽しみとするならば、無宗教の危うい思想ではないならば、それはただの儀式、文化です。
初期仏教は宗派ではなく、お釈迦様の教えです。どう生きるかを私たちに、「自分の事は自分で救うしかない」と厳しくも慈しみ深い、尊い教えです。その事は中村元先生に深く影響を受けました。初期仏教はれっきとした学問として成り立ちます。
家族の宗教観
日本には西欧風の文化も、キリスト教のイベントも、神道のイベントも、ご朱印集めなどもひっくるめて有難がったり、季節行事として何の抵抗もなく楽しむ傾向を、敬虔な宗教意識を持った外国人は不思議がるかもしれません。
夫の郷里は商売をしますから家に神棚があります。
長女は神道系の大学に通いましたが、神道を学ぶわけではなく、史学を学んだんですね。次女はミッション系の学校に通いますが、クリスチャンではありません。学校行事でミサがあれば参加します。クリスマスイベントはおごそかですし、お正月は鏡餅を飾ったりと神様を敬いながら、心の拠り所は本当には決まっていないんですね。というのも、自分の葬儀はどうしたいか?宗派は?と聞かれてちゃんと答えられる方は、常日頃から信仰者としての戒律を守っていたり、お努めに励んでいる方だと思うんですね。そういうものが実生活にないから、宗派関係ない家族葬、お坊さんの読経などもいらない、お墓は樹木葬でっていう葬儀を希望する方が増えてきたんですね。
入所の時に聞かれた、望む宗教はありますか?
母が入所時、質問リストに、利用者さんにご信仰はありますか?
とあり、おそらくは看取りの時のことを聞かれたのだと思います。
母は特別な信心はありませんでしたが、お墓や葬儀の事はこだわりないと申していたので、見送り方は親族で相談して決めます、と答えたんですね。
母はクリスチャンでもないし、神道でもないし、ゆかりのお寺もないので、
生前に一緒に、慈悲の瞑想はしていたなという、自分のことは自分で!の精神で母は旅立てると思うのです。
死ぬときは一人
死ぬときは結局、ひとりなんですね。
しかし、それまでは人間は誰かの支え、支え合いで生きていきます。
矛盾しているようで、それが現実です。
誰かの支えがあっても、心のことは、自分でしか調えられません。
自分でそれができるひとは、はじめて他人をも思いやる事ができ、
自分を嫌ったり、嫌う人の幸せも願う事ができる人格者になろうではないか、と
スマナサーラ長老が説きます。
こころの復興
スリランカ上座仏教長老が教える「喪失感」に負けない考え方。
ものがなくなっても、心はなくさない。
●豊かさ、貧しさは心が決める
●色眼鏡を外せば、すべてが味方になる
●「失う」ことで得られること
●インターネットで孤独は消せるか
●世の中は「無常」だからおもしろい ほか
【目次】
第一章 なぜ、仏教は心を重視するのか?
第二章 なぜ、心は壊れるのか?
第三章 「喪失感」を消す方法
第四章 「孤独感」を消す方法
第五章 仏教が教える「生と死」
第六章 明るい心をつくる
YouTubeでご先祖供養、葬儀に関して家族の宗教観とテーラワーダ信徒の折り合いについてのお説法、インドの宗教観を教わりました。
19:03分あたりから
生きとし生けるものが幸せでありますように。