今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」
おばあちゃん、と言っても私の母へ、なんですが。
六花亭の、敬老の日ギフトでこじんまりとした焼き菓子のセットを送りました。
そして、手紙も添えました。
お菓子は当然のごとく『消えもの』ですが
手紙はしばらく母が読み返したりするので、
敬老の日に限らず母へは週一回ペースくらいで手紙を書いたり、
小さなプレゼントをしています。
母が入所したばかりの頃、母は足りないものを送ってほしいと
週に2遍は、ハガキを書いてよこしました。
私は気重に思ったんですが、今はそれに慣れてしまい、
そろそろあれを送ろうか、こういうものは喜ぶかしらん?と、
リクエストが来る前に施設に送るのが、『お役目』として板についてきた気がします。
始めは母の仰せが細かいと、いちいち気が重くなったものですが
最近はどうすれば喜んでくださるかしらん?と気配りが楽しいのです。
そうしましたら、不思議な事に母からの、あれを送れ、これを送れのハガキが徐々に少なくなりまして、なんだか簡単過ぎる宿題をしているようで、やりがいがないなぁと。
それで、手紙には私が毎度同じような、ご機嫌伺のような、通り一遍のことを書くのではなくて、心の栄養になるようなことで励ましてやりたいと思うようになりました。
前に、母には慈悲の瞑想の、シンプルバージョンをハガキに書き起こしまして、
気持ちが落ち着かない時や、さみしい時には唱えて、と。
コロナ禍で面会にもいけませんので、母は寂しいのです。
ですので、そんなときは家族はみんなが同じに寂しいですから、
慈悲の瞑想をお互いに離れた場所からでも唱えたらいいですね、と書いたんです。
と申しましても、母が慈悲の瞑想を実際にやらなくてもいいんです。
母へアプローチする私が、以前のように無力感で暗くなったり、
余計な心配はしないため、だったんです。
母を励ますんでしたら、私自身がしっかりと、明るく生きていなければ母を明るくするなんてできっこないですから。
それで、慈悲の瞑想は私の心に栄養として染みわたり、面会がままならない状況でも、母をどうやってはげますのかと、知恵を絞ったり工夫する【忍耐】の種まきなんですね。きっとじわじわとそれが育って、離れていてもお互いのつながりを感じられれば、それは自然な優しさ、思いやりなのでは?と思うのです。
この本の巻末に、慈悲の瞑想のフルバージョンが書かれています。
母には事故の後遺症で半身が不随なのと、判断力や認知にハンディが残りましたが、この本は母にも心の栄養として届くと思いました。
施設の暮らしに慣れるまで、母はさまざまな愛着や執着と離れなければならず、母は自身の希望が叶わない事と、父を心配する思いがごちゃごちゃにこんがらがっておりました。
娘である私がそれを諭そうとすると、やはり母は面白くないのです。
しかし、長老のように、お坊様がお釈迦様の智慧で『生きる苦しみ』について説くと、すんなりと『聞く耳』を持ってくれるかもしれません。
母のように重度の障がいがあるお年寄りには、自由よりも、手厚い看護だったり、身の回りのことを介助してもらえる環境が、まず必要です。
いつまでも高齢の父を頼って生きられないのです。
特養施設という特殊な環境は、介護度が重い高齢者やその家族は入所を望んでも入れなかったり、本人が拒んだりと、人生の終の棲家を考えるのですから、けして優しくないのです。自由気ままな父との二人暮らしを思い出してはそれこそが『自由』と思い込んでいた父と母は当然のごとく、苦しんでいます。愛別離苦です。
親族はみな、高齢の二人の暮らしが心配でした。父に何かあったら?母にもそう言えます。起こるべくして起こった、母の骨折で、施設入所になった次第です。
この本の教えは私にも深く刻まれました。
本当のやさしさとは____。
すべての生命はつながっていて、お互いさまで生きている。。。。という自然なつながりが、本当のやさしさだと説かれております。
世間でいう優しさに対する誤解や、エゴをものの見事にあぶりだして、わかりやすい例えで導いて下さいます。
生きとし生けるものが幸せでありますように。