先日、実家へ掃除に行った時のことを書いておこう。
実家の居間のテーブルに、特養で生活する母の書類を出した。
このほどコロナ禍で、施設を利用する際の、サービス内容の確認同意書のようなものにサインを求められたことを父に話す。その上で、要介護4の母と、高齢の父の二人暮らし方が、母の骨折を機に成り立たなくなったことを、母の入所から半年経って、改めて話し合う日として、目の前で憤怒の塊になっている父と対峙する。
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父が何を言っても自分は感情をコントロールする、と決めて帰省した。
『お元気でしたか?だいぶ涼しくなりましたね』と居間に腰かけ、
父の近況を訪ねると、『あ~、ここは涼しいところだからね、寒いくらいだよ。』と父は9月だというのに、もこもこのウールのステテコ?のようなものを履いていた。
86歳でひとり暮らしはさぞ、不自由だろうな。そう思うのは私の心配し過ぎで、父は他人に世話になるくらいなら、と頑固に一人暮らしを通している。
まぁまぁ元気な様子だけれど、胸中穏やかではないのはすぐに露見する。
母の話になると、『今度、リハビリの担当者に言ってくれ。お母さんは家でのんびりしてるのが一番自然で、リハビリなんて何もならない、返してくれってな!』と目を三角にして怒りの表情になる。しばらく父の言い分をじ~っと聞くことにする。
時々、相槌は打っても、同感や共感するような、あいまいな態度はとらずに。
父の言う事をただ黙って聞くって事だ。
いよいよ父の感情が極まって、大声になり、こぶしをぎゅっと固く握りしめるようになったあたりで、
『お父さんの気持ちはよくわかりました。お父さんは強いこころの持ち主ですね、お父さんの生き方は、きっと最後までそのとおりになるでしょう。でも、おかあさんの気持ちも聞いてくれますか?』と切り替えしたのは、父の生き方と重度の障がいがある母とは、父が高齢になった今は暮らしが成り立たなくなっている事実について。
父の言い分は、『俺も力がなくなってはいるが、息をして、おかあさんと二人暮らし、自由に暮らす権利は誰にも邪魔されたくない!』というもの。
私『はい、それはまったくその通りで、おとうさんの邪魔は誰もできません。
しかしお母さんはどうでしょうか。おかあさんも息をしているし、自由な生活はしたいとは思っていますが、おトイレに行きたい、お腹が空いた、お風呂に入ろうか、と言う時にお母さんは自分ではひとつもできないんです。そういう方には自由よりも、生活のための介助が必要なんですよね?』
と説明すると父の顔に落ち着きが戻りました。
長年、母の介護をしてきたのは父です。
父『そうだね、おかあさんは、まったく何にもできないんだよな。かわいそうな人なんだよ。』
私『そこなんです、おかあさんとおとうさんでは、生活上の自由が実際にはちがうってことを、おとうさんがお母さんを支え続けたことでかなっていましたね。おかあさんの骨折入院ですべてが変わりました。以前よりも増してお母さんには介助が増えてしまいましたから、もう別々に暮らして、お母さんにはリハビリが必要です。おかあさんの淡い期待は、お父さんと一緒に入居できる施設暮らし、なんですよ。それについてはどう思いますか?』
父『私はそこまでもうろくしちゃいないよ、施設なんて嫌だよ。』
私『そうですね、では別々に暮らすってことしか、道はないですよね。おとうさんもおかあさんも、長年二人で支え合い、良い夫婦でしたよ。さみしいけれど、お母さんの体には介護が必要、お父さんはお達者、この差は仕方がない事ですよ、どうか理解してくださいね。おとうさんは、今の静かな暮らしを、ゆっくりと過ごしてほしいんです。わたしは時々お掃除に来ますから、一緒にお茶を飲んだりお弁当を食べましょうよ、ね?』とお願いするスタンスで。
父とはしばらく母の障がいの重さについておしゃべりしました。
そうだ、おかあさんの身の回りの世話は大変なんだよな。。。。
おとうさん、長年よく頑張りましたよね。。。。
さきほどまで、荒ぶる神は優しい顔に変わっています。
父の認知の低下は、今の穏やかさが長続きはしないかもしれないのは、この半年間の様子で学んだこと。
私の役目はそれに対して根気よく、忍耐をもって父にあたることだ。
母の入所を父が理解できないのは、認知症の症状もあるだろうし、
大きくは母への愛着だ。
母の体の障がいは、父が一番よく知っている。
長年、介護してきて、介護麻痺が生じたのかもしれないし
愛情・愛着はこんなにも人を苦しめる。
もう、父にはゆっくりと肩の荷をおろしてもらいたい。
愛着を破って、父と母がお互いを慈しみあう仲になるための一助、
背中を押してあげたいと思うのは悪行為ではなかろう。
この日の父との押し問答はお釈迦様は何点つけて下さるだろうか?