あるとき、自分の本性(本質)に向かい合う態度と、掃除しているときの気分は似ているなと思いました。
自分は物を持つとか、必要不必要としているか、なども結構あいまいでした。
あいまいに過ごすことが悪いといういうのではなく、そこに迫って決着をつけたい、という衝動が起きてしまう。
わ~、片付けてすっきりしたいな~!という気分は「お祭り気分」と割り切れば楽しいな、と。
物の保管場所を決めるのは、自分がしっくりくる拠点探しに似ていると思いました。お片付けはしてもしなくてもいいわけだし、拠点探しだって不必要な人には「別に」かもしれません。何せ「おまつり」なんですから、個人レベルの、自己満足です。
その自己満足は、全然スルーされて構わないんですが、次の事が自分を襲うとどうでしょう。
!物をたくさん持った状態で親が亡くなる、
!親族が物をたくさん持っていて片付けられない、
!物、物、物!自分のものでもないのに、お片付けする義理ができてしまったとき!
「被害」「わずらわしさ」を感じるのではないでしょうか。
ですから単に掃除やお片付けは個人の自己満足と、放っておくこともできない年齢になってきている、という事なんですね。
そして、いざ、お片付けを意識したときに、自分にその体力があるか、時間があるか?ってことも。
日常に「死」という概念を据えて過ごす人は、こういうことに敏感です。時間はまだまだある、ではなくて片付けたい「衝動」、にかられ片付けで奪われる労力は、片付けや掃除のあとのスッキリとした境地において癒える「おまつり」なんです。
このおばちゃん、掃除とか片付けとか、つまんないことでブログ書いてるな〜
そうお笑いになるのは全然、構わないんです。
だけど自分の親が住まう家の片づけは誰が?
それは自分にとって逃げられない事だな、と思っています。
(夫の実家は?、自分の実家の場合は?と、夫婦で話し合っておく!!)
↑ここ重要!
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO20079740X10C17A8W11300?channel=DF110520160091
自分の子どもには、自分の持ち物は少なく、という意識と。持つなら自分が亡きあとは子どもにとって負担のないようにしておく。その事はこの先何年かけてそのレベルに到達できるか。お片付けという、「おまつり」衝動。管理人はそのお祭り実行委員長。えらい、エライ♬エライ、えらい。